僕があの日、ユノの手を離したのは、
これから先、二度と僕達の運命が交わることはないと思ったから。
僕の知らないところで、ユノはユノの人生を送って、
例えば、いい会社に就職して、素敵な恋人を作って、
結婚して、家族ができて……
僕と一緒ならできなかったであろう豊かな人生を、送ってくれると信じていたから。
僕には見えない所で、ユノが幸せでいてくれるのなら、
それで僕は充分だと思っていた。
僕にはユノとの想い出が、
ユノに愛された日々があるから、
これから先、その幸せな記憶を糧に生きていける……
そう、本気で思っていた。
なのに、
ユノは突然、僕の目の前に現れた。
僕が思い描いていた通りの人生を送っているユノが。
一流大学を出て、一流企業に就職して、
きっと素敵な女性と結婚して……
僕はそれを望みながら、
だけど、見たくはなかった。
ユノが他の誰かと幸せでいるところなんて、
見たかったわけじゃない。
それなのに、
僕と会えて嬉しい、と言う。
運命、だなんて、
そんな甘い言葉を当たり前のように囁き、
僕の手を握った。
あなたは、狡い。
嬉しそうに微笑みながら、そんな言葉を吐くなんて。
あなたは、もう……
その薬指に誓った人がいるんでしょう?
神様の前で、永遠の愛を誓ったはずなのに、
どうして、
今さら、僕の前に現れて、
僕の気持ちを揺さぶったりするんだよ……
「……チャンミン…?」
黙り込んでしまった僕を窺うように、ユノはそっと顔を覗き込む。
黒い美しい瞳は、昔と少しも変わらない。
あなたの真っ直ぐなところ、
自分の気持ちに正直で、偽れないところも、昔のままだ。
もう、あなたも、僕も、いい大人なのに。
世の中のルールも、常識も、ちゃんとわきまえてる大人のはずなのに……
そんなものすべて投げ棄てて、堕ちてしまえるなら……
そんな衝動が僕の胸を突き上げる。
「……今、どこにいるの? やっぱりソウル市内?」
僕は平静を装い、ユノに尋ねた。
それは僕の最後の抵抗だった。
「え、ああ。ここから30分くらいかな。マンション借りてる」
「そう。奥さんは何してる人?。あ、専業主婦? 子育て中とか」
僕はわざとらしく明るい声でいった。
ユノの眉がピクッと動いて、静かに視線を降ろした。
ユノは、僕の手を包んだままの自分の両手をじっと見つめて、
それからゆっくりと唇が動いた。
「……4年前に、結婚したんだ。妻は、大学の同級生で……」
「そう……、よかった。おめでとう」
僕はユノの手の下から自分の手を引き抜いた。
妻、と言ったユノの声は優しかったから、
その声で、僕は正気を取り戻せた。
僕たちに、二度目の運命なんてないんだ。
「……妻は、病院にいる」
ユノは言った。
「え、?」
「入院してるんだ。もう、2年になる」
ユノは自分の手を見つめたままだった。
「そう……、あの、子供は、いないの?」
「いない。一度できたけど、8か月で流産した。
もともと身体の弱い人だったから……」
「ごめんなさい……辛いことを聞いてしまって……」
「いや、いいんだ。チャンミンには隠し事はしたくないから」
ユノは小さく首を振り、口元だけで笑った。
僕は、ボアの言葉を思い出していた。
家庭の味に飢えているとは、この事だったのか。
ならば……
「もしかして……新聞部から移動になったのは……」
「ああ、ボアから聞いたのか……。記者は出張が多いからな。普段は向こうのお義母さんがいてくれてるから、何も心配はないんだけど」
「病気……重いの?」
「ん……、もともと心臓と腎臓が弱かったんだけど、日常生活は普通にできてたんだ。妊娠して、それで流産して……それが身体に大きな負担をかけてしまったようで
それから暫くして入院した」
「そう……、ユノも辛かったね…… 」
ユノの優しい眼差しの奥に、そんなに辛い現実を抱えているなんて、思いもよらなかった。
ユノは、幸せになっていると、信じていたのに。
僕は、
僕は間違っていたのか?
こんな、ユノを苦しめるために、
僕は手を離したんじゃないのに……
「チャンミン、泣かないで。俺は大丈夫だから」
ユノの腕がのびて、長い指がそっと僕の頬を滑った。
僕は自分でも気づかず、涙を流していたらしい。
「ユノ…… ごめん ごめんなさい……」
両手で顔を覆って、僕は泣き崩れた。
僕は愚かだった。
ユノのため、なんて言い訳をして、逃げ出したのは僕の方だ。
そのせいで、ユノをかえって苦しめることになってしまった。
ユノを信じて、一緒にいればよかった。
それができなかった僕の弱さが、ユノを苦しめることになるなんて……
ふわりと、僕の身体は温かいものに包まれた。
ユノが隣に座って、遠慮がちにそっと僕の肩を抱いて、
「チャンミンは、悪くない。俺に謝ったりしないで」
耳元にユノの声が聞こえて、僕の身体は震えてしまった。
懐かしいユノの匂いが僕を包んで、
次第に強くなるユノの腕に引き寄せられて、厚い胸に顔を埋めた。
「ずっと、チャンミンが忘れられなかった。いつも、心の奥に君がいて……、
だから、これは……そんな俺に与えられた罰なんだよ」
ユノの右手が、僕の左手をそっと握って、
僕は、その手を強く握り返した。
堪えていたものが噴き出して、もう、抑えることはできなかった。
ユノが罰を受けると言うのなら、
僕も共に受けよう。
僕達が愛しあったのが、罪だというのなら、
真に罰せられるべきは僕なのだから。
ユノとならば、どんな場所に流されたとしても、
僕は何も恐れない。
「ユノ、愛してる…… 」
僕の言葉が終わらぬうちに、
ユノの厚く柔らかい唇が僕の唇を塞いで、
僕達は重なりあって闇に堕ちていった。
『哀歌(エレジー)』 平井堅 2007年
短編の予定ですが、もう少し続きます。